世界一厳格な基準をクリアした但馬牛
今回は、兵庫県神戸市の世界的に知られたブランド牛「神戸ビーフ」をご紹介します。
神戸ビーフの歴史
”神戸肉”または、”神戸ビーフ”は出荷の際に神戸肉流通推進協議会がその生育環境、血統、肉質などにおいて厳しい基準を満たした「但馬牛」に与えられる名誉ある称号です。
但馬牛の歴史は古く、約1200年前の「 続日本紀 」に「但馬牛、耕うん、輓用、食用に適す」という記述があります。約700年前に書かれた「国牛十図」には当時の和牛の体系・特徴・性質などが記述されており、但馬牛の項は「骨ほそく宍かたく皮うすく腰背まろし角つめことにかたくはなの孔ひろし逸物おぼし」と書かれています。昔は食用よりも荷役用としての役割が大きく、食肉牛として注目されるようになったのは明治以降です。交通の便も不便だった頃は、自然に良い血統が引き継がれてきましたが、現在でもその事を重視し血統を守り続けているのです。
江戸時代までの日本では、牛は食用としてではなく、農耕用として飼育されていました。香美町でも同じで、一軒に数頭の牛を飼い、一つの労働力として家族同様に育てられ、共に暮らしてきました。時が経ち、明治初期、日本は文明開化とともに牛肉を食べる食文化が広まりました。それと同時に小柄な日本の牛を外国の牛のように体格の良い牛にしようと、品種改良(外国種の雄との交配)が盛んに行われていったのです。ところが、これが大失敗。気性が荒く、働かず、病気も多い、そしてなにより肉質がよくないという残念な結果となってしまい、但馬牛も含む和牛の純粋種が絶滅の危機に直面してしまいました。終戦後、元の和牛を取り戻そうと全国で本格的な取組みが始まりました。が、時すでに遅し。国内には純血の黒毛和種が残っていなかったのです。
和牛復活を諦めかけていた時、奇跡的に香美町小代区の山深い里(熱田地区)に外国種や他の血統との交配を逃れた純血の但馬牛が4頭残っていることが分かったのです。そこは、標高が700mもある高地で、他の村とも遠く離れていたこともあり、雑種化を逃れることが出来たのです。これが、一度は消えてしまったかに思われた黒毛和種を復活させる大きな要因となりました。まさに「小代の地理的要因が生んだ奇跡」と言えるでしょう。
そして、残った4頭の内の1頭の子孫として生まれたのが「和牛の偉大なる父」と言われる「田尻号(雄牛)」です。田尻号は、肉質のよい強い遺伝子をもった種牛で、当時はまだ凍結精液などなかった自然交配の時代、なんと生涯で約1500頭もの子孫を残しました。この田尻号のDNAが、今の黒毛和種の99.9%のルーツとなっているのです。「奇跡の4頭」と呼ばれるこの牛たち。そして「田尻号」。この牛たちがいなかったら、現在世界中に広がる「和牛」は存在していなかったでしょう。
食肉の文化のなかった日本の食意識にも変化の時が訪れます。きっかけとなったのは、慶応3年(1867年)の神戸港開港。今からわずか、150年ほど前のことです。開港を機に外国船が次々と寄港するようになると、周辺には次第に外国人居留地が形成されはじめます。西洋文化の中には食肉の風習が浸透していましたから、滞在する外国軍艦乗組員たちにとって食肉は極めて自然な行為。兵庫開港以前に横浜居留地の商人によって但馬産の牛が外国に運ばれ、このころ既に高い評価を得ていたこともあり、そこに暮らす外国人たちは当然盛んにその肉を求めました。しかし当時まだ牛肉を食す習慣のなかった日本では、食用牛肉を計画的に生産・供給する仕組みもなく、食べたくても食べられないという状況が続いていたようです。そこに一石を投じたのが、エドワード・チャールズ・キルビーというイギリス人実業家です。旧生田川の東に屠畜場を借りて、外国人向けに牛肉の販売を開始したのです。
それを契機に、神戸港周辺に暮らす日本人たちの間にも、徐々に食肉の風習が広がりはじめます。その後、明治時代の文明開化とともに外国文化が急速に浸透しはじめると、日本人にとって牛肉を食べることがいわば流行のようになり、牛肉を使ったすき焼き店がここかしこに登場。もともと外国人の手によって興された牛肉マーケットでしたが、日本人の牛肉店や牛肉料理屋が続々と登場し、明治4年には、全国で初めての日本人経営屠殺場「鳥獣売込商社」も設立されます。食肉文化はその後もさらに広がり続け、明治8年以降にもなると、牛肉の生産から加工、販売業のほとんどが日本人によって独占されるようになっていきました。
当時初代兵庫県知事だった伊藤博文が牛肉を好んで食べていたのも神戸では知る人ぞ知る話です。文明開化とともに外国の珍しい文化が急激に入り、日本人の食生活も大きく変わっていきました。明治天皇の食膳に牛肉がのったのは、明治5年1月24日と言われています。
神戸ビーフの特徴
「神戸ビーフ」「神戸肉」「神戸牛」「KOBE BEEF」は兵庫県で生産される優れた但馬牛(タジマウシ)を素牛として、最低月齢28カ月以上、平均32カ月程度かけて理想の肉質に近づけていく最高牛肉です。牛肉の良し悪しはその素牛で決まると言われています。「神戸ビーフ」の素牛である但馬牛(タジマウシ)は、長い歳月をかけ、多くの人々の努力により、改良に改良を重ねた結果、薄く弾力に富む皮膚と、羽毛のように柔らかい毛、引き締まった筋肉を持ち、肉の味の良さはもちろんのこと、骨が細く皮下脂肪が少ないため可食部が多く、まさに食用には最高の資質に恵まれた抜群の肉質を有する肉用牛として作り出されたものです。
このような但馬牛から得られた牛肉の中で、権威ある食肉格付機関により、歩留等級がA又はBで、肉質等級が4等級以上、12段階で評価する牛脂肪交雑基準(BMS)が6以上であり、尚且つ肉のキメ細かさの観点から重量が最大499.9kg以下の枝肉にのみ「神戸ビーフ」「神戸肉」「神戸牛」「KOBE BEEF」の称号が与えられます。その肉質は、キメが細くて柔らかく、脂肪が筋肉に細かく入り込み、筋肉の鮮紅色と脂肪の白色が鮮やかに交雑する最高級の「霜ふり肉」です。他の産地の一般的な牛肉と比べて、脂肪の中におけるモノ不飽和脂肪酸の割合が高いことに由来すると考えられています。賞味すれば、舌ざわりが良く、とろけるようなまろやかさが口一杯に広がり、特有の風味を醸し出します。
神戸ビーフの生産について
「神戸ビーフ=世界一厳格な基準をクリアした但馬牛」です。日本三大和牛の中でも、一番厳しい審査基準をクリアした但馬牛が、神戸牛です。上記の通りそもそも厳しい基準がある但馬牛をさらに基準を増やし厳格な審査に合格した牛だけが”神戸牛(神戸肉・神戸ビーフ)”を名乗ることができるのです。日本三大和牛と呼ばれる神戸牛、松阪牛、近江牛の中でも一番厳しい審査基準を設けており2009年アメリカのメディアにも海外メディアにも世界で最も高価な9種類の食べ物として神戸牛が取り上げられています。
神戸牛の厳格な基準は下記の8つの条件を満たすことです。①代々厳格に管理されている但馬牛であるとことが神戸牛であることの前提です。②雌牛ならば未経産牛、雄牛ならば去勢牛であることが条件です。③認定された肥育業者によって育てられた牛であること。④生まれ、育ち、出荷まですべてが兵庫県で行われた牛であること。⑤一頭の牛から食肉として利用できる割合を基準化した歩留投球がA・B以上であること。⑥霜降りの度合い、色、筋繊維の細やかさ、脂質などの評価基準(1~5)を4以上でクリアしていること。⑦霜降りのランクを12段階に分けた時(BMS値)にNo.6~No.12に選別されるもの。⑧雌牛270Kg~499.9Kg、去勢牛300~499.9Kgであること。
神戸ビーフの普及について
食肉として、但馬牛(たじまうし)が食べられるようになったのは、1886年の神戸港の開港がきっかけです。当時日本へ来た外国人が但馬牛(たじまうし)を食べ、その美味しさのとりこになったといわれています。明治時代以降、都会に「牛なべ屋」ができ、大正時代には「すきやき」が家庭の食卓に出るようになり、「神戸ビーフ」が、ご馳走の代名詞となっていった、といわれています。そのころには、どんな肉が「神戸ビーフ」であるのかという定義(上記13.特定農林水産物等の生産の方法の生産方法に合致した牛のこと、以下同様)がはっきりしていなかったことから、昭和58年に生産者・食肉流通業界・消費者が協力し、申請者が設立され、「神戸ビーフ」の定義を明確にし、「定義にあった肉に「神戸肉之証」を発行し「神戸ビーフ」「神戸肉」「神戸牛」「KOBE BEEF」であることを証明する。」「販売店及び生産者を指定する。」「指定登録店にブロンズ製のモニュメントを置き、消費者に「神戸ビーフ」「神戸肉」「神戸牛」「KOBE BEEF」が売っていることがわかるようにする。」ことを行いました。申請者は、昭和58年に設立され、現在に至るまでその定義を守り続けています。