最高級の素材と技術で作り上げられ、京都独自の美意識のもとで発展してきた、シンプルなデザインと上品さが魅力の「京和傘」。今回は、そんな京和傘の技術を江戸時代から現在まで継承する唯一の工房である株式会社日吉屋の代表取締役 西堀 耕太郎様に、お話を伺いました。
企業理念〜「伝統は革新の連続」〜
「伝統は革新の連続」という言葉を私の代から企業理念としています。和傘の歴史は1000年ほどありますが、その間、全く姿かたちが変わらなかったということはなく、変化の連続だったといえます。
どんな物も登場した時は全く新しいイノベーティブなものですよね。それが徐々に受け入れられ、時代に合わせて変化し続けていくことで、初めて『伝統』になるのだと思います。ですから、「伝統は革新の連続」を企業理念として、常に変化することを恐れず、今の、そしてこれからのお客様に受け入れられる商品を作っていきたいと考えています。
和傘産業の流行と衰退
今では意外なことかもしれませんが、江戸時代から戦後初期までは和傘は日用品として庶民の間で広く親しまれていました。今でこそ洋傘やビニール傘など、色々な種類の傘がありますが、江戸時代には和傘しかありませんでした。明治・大正・昭和となる中で洋傘も登場してくるわけですが、当初、洋傘は輸入品で値段が高かったので、当時はお金持ちしか洋傘は買えず、庶民は和傘しか持てなかったのです。それが、第二次世界大戦が終わり、日本のライフスタイルが急速に西洋化していく中で、和傘もだんだんと使われなくなっていき、現在は生産量も激減しています。弊社の売上も大幅に減り、先代が「もうこれ以上続けられない、私の代で廃業する」と言ってしまうほどでした。
“老舗ベンチャー”になる
このように衰退しつつある和傘産業をもう一度盛り上げようと思い、“老舗ベンチャー”という言葉を使い始めました。“ベンチャー企業”というものはどこも、「自社の技術を活かして社会に新しい価値をもたらそう」としているのだと思っています。そして日吉屋にも、江戸時代から受け継がれてきた和傘生産の技術があります。このような老舗が持つ技術を活かし、新たな時代に合った革新的な商品開発を行うことで、和傘の良さを世界に広めていく。そのような思いも込めて、日吉屋を“老舗ベンチャー”と位置付けています。
和傘の道を志したきっかけ
そもそも私が和傘の道を志そうと考えたのは、留学を通して「海外から日本を見つめなおす」という経験ができたことが大きかったように思います。高校卒業後、カナダのトロントへ留学する機会に恵まれ、そこで初めて“外から日本を見る”という経験をしました。
「日本から来ました」というと、現地の人から「日本とはどんな国なの?」と聞かれることが多いです。これにより、必然的に日本について客観的な視点で見つめなおすことになり、日本文化の良さに気づくことに繋がりました。
帰国後は地元である和歌山県新宮市で公務員として働き始め、妻と出会い、妻の実家が日吉屋でしたので、そこで和傘と出会うことになりました。日吉屋の和傘を一目見た瞬間に「かっこいい!」と心打たれたことを今でも覚えています。海外の文化に触れ、日本文化を見つめなおしたからこそ、和傘に強く惹かれたのだなと思っています。
そして、インターネットでホームページを開設する事で、アクセスが徐々に増え、和傘を好きな人が国内外にちゃんといるのだということが分かってきました。和傘の良さを分かってくれる人が自分の他にもいると分かることで自信が得られたとともに、何とかしてもっと和傘の良さを伝えていきたいという思いが芽生えました。
これが大きなモチベーションとなって、和傘づくりの修行に励むことができました。
公務員から和傘の道へ
29歳の時、公務員を辞職して妻の実家「日吉屋」を継ぎました。後から考えれば色々大変だったとは思いますが、当時の自分は心の底から楽しいと思って取り組んでいたので、あまり大変だとは感じていませんでしたし、「覚悟」のような重たい気持ちもありませんでした。
日本は生活保護などのセーフティネットも充実していますし、仮に破産して一文無しになっても死ぬことはありません。好きなことに挑戦して失敗したとしても、生きていくことはできます。
それに、元々、先代は自分の代でやめると言っていましたから、ある意味自由にやらせてもらうことができましたし、「あかんかったらしゃーない」くらいの気持ちで挑戦していました。このように「覚悟」というような重い気持ちではなく、“和傘づくりが楽しい・面白い”と思ってやってこられたことは良かったのではないかと思っています。
エリザベス女王の来日で感じた“和傘を残すことの必要性”
画像はイメージです
実は、私が「日吉屋を継ぐ」と言ったとき、私の実家も、妻も、妻の実家も皆、私が日吉屋を継ぐことに反対していました。当時の日吉屋の年商はたったの168万円。公務員という安定した職に就いていたのに、何故168万円しか売れていない事業をやるのか、といった反応でした。
そんな時、「日吉屋を継ぎたい」と強く思った出来事がありました。先日亡くなられたイギリスのエリザベス女王が1975年に来日した際の雑誌の記事を見る機会があり、女王をお迎えして、桂離宮のお庭で茶道による“おもてなし”が行われたのですが、そのお茶道具として、屋外でお茶を点てる際に使う日吉屋の野点傘が使われていたのです。赤い大きな野点傘の下で美味しそうに茶をたしなむエリザベス女王…
「このような歴史的なワンシーンから和傘が消えてしまうのは日本文化の損失ではないか。それだけは避けなければならない」
と思いました。
しかも当時日吉屋は京和傘を制作する最後の一店となっていました。
「日吉屋を廃業してしまえば、和傘文化自体が絶滅の危機に瀕してしまう。だからこそ、自分が継ぐことで、和傘という日本文化を絶やさず残していきたい」と家族に訴え、何とか説得することができました。
家族の反応の変化
そうはいっても、日吉屋の年商が168万円の時に公務員を辞めたわけではありません。実は、公務員をしながらも、日吉屋を継ぐことを決意していた私は、ホームページのEC立ち上げのお手伝いをする事で、売り上げを168万円から1000万円くらいまで伸ばすことに成功しました。数年で1000万円程度まで売上を伸ばすことが出来たので、家族からも「ちゃんとやっていけるだろう」という信頼を得ることができたように思います。
実績を積むことが信頼を得るための唯一の方法なのではないでしょうか。
こうして、ようやく公務員を辞め、正式に日吉屋を継ぐことができました。
如何にして情報発信をするか
当時の年商は168万円でしたから、ひと月あたりにすれば10万ちょっとしかありません。いかに和傘が伝統と歴史のある素晴らしい物だといえども、経済的に成り立たせないのでは意味がないと思っています。
そこで、「どうすれば和傘の価値をちゃんと伝えて売り上げに繋げていけるのだろうか」ということを考え、ずっと試行錯誤してきました。
『自分が良いと思えるものは、余程のことじゃない限り他にも良いと思う人がいるはずで、どうやってその人たちにこの情報を届けるのか』
これが当時の私にとって大きな問題でした。
そこで目を向けたのが、インターネットです。当時はまだインターネットがあまり普及していませんでしたが、たまたま身内にITベンチャーをやっている人がいたこともあり、早くからHPを使って情報を届けるという活動も地道に行いました。その結果、徐々にアクセス数も増え、その後ECにも取り組む事でオンラインでも販売が増え、同時に、Webサイトを見て、実際に店舗に買いに来てくれる人も出てきて売上も好転していきました。
グローバルニッチを目指す
和傘をいいなと思ってくれる人は一定数いますが、正直、数は多くありません。和傘を購入してくれる人は体感で1万人に1人くらいです。日吉屋がある京都市上京区の人口は3万人なので、買うのは3人しかいないことになります。さらに言えば、和傘は長持ちするので何度も買うものではなく、普通は一生に一度しか買いません。和傘市場は非常にニッチなマーケットなのです。
そうなると、売上を上げるには購入層の分母を広げなければならず、市外、県外で売るということになってきます。それでも日本国内にとどまる限り1億3000万人しかいないし、皆が皆買うわけでもないので、グローバルに展開しないと市場が少なすぎると考えました。
そこで、グローバルニッチを目指そうと考え、海外にも向けて売り出すことにしました。私自身、海外に行った経験から、日本の文化を他の国に広げることは意義深いことだし、ニーズも十分にあると思っていましたので、グローバルニッチを目指すことにはやりがいを感じていました。
和傘のランプシェード「古都里-KOTORI-」の開発
「古都里-KOTORI-」が誕生した瞬間
最初は和傘を売っていこうとしたのですが、高いし、そもそも使わないのでなかなか売れませんでした。これは国外も国内も同じで、ごく限られた人しか買ってくれません。インターネットのおかげで当初売上は増加しましたが、徐々に鈍化していきました。そんなわけで、型にはまらない新しい商品を開発できないかと思うようになりました。
新しい商品について考えながら日々の作業に取り組んでいたところ、毎日近所のお寺で、和傘の防水の為に油引きした和傘を天日で干して乾燥させているのですが、ちょうど和傘に太陽の光が透過しているのを目にし、それがすごく美しく、神秘的に感じました。当時、伸び悩んでいた和傘の売上を打開するために、何か新しい商品を作れないかと常に考えてヒントを探し求めていたからでしょうか、この時、和傘を照明器具にしてみたらどうだろうかと閃いたのです。その後の幾多もの試行錯誤や、照明デザイナー等の助力もあり、和傘の構造を利用したデザイン照明「古都里-KOTORI-」が生まれました。
この「古都里-KOTORI-」がグッドデザイン賞をはじめ様々な賞をいただいたり、海外含め展示会へ出品する機会も増えたりして、売上も大きく向上しました。おかげで、現在で日吉屋の製造部門の売上の約6割は照明器具をはじめとするインテリア関連商品となっています。
「和傘」であることに拘らない
たしかに、和傘と照明器具は全然違うもので、和傘を照明器具にしても良いのかとも思えます。しかし、和傘が誕生した1000年前、和傘は傘としての用途ではなく魔除けのアイテムとして生み出され、形も今と全然違っていたそうです。何百年もかけて用途も形も違うものに変化していき、今の形となっている。そうであるとすれば、今の「傘」としての形にこだわる必要は無いのではないか、と思うわけです。和傘を「雨傘、日傘」として使う人は少なくなりましたが、「照明器具」としてならばもう一度使ってもらえるのではないかと考えたのです。
和傘のドレス〜桂由美さんからのご依頼〜
このように、ただの伝統工芸の工房ではなくてクリエイティブな職人集団を目指そう、ということでブランディングをしていました。そうして色んな外国人やデザイナーが声をかけてくれる中で、ファションデザイナー桂由美さんの事務所から、パリ・コレクションで発表するドレスを和傘の技術で作れませんかという依頼が来ました。試行錯誤の末、何とか完成させることができ、2011年のパリコレのオープニングとフィナーレで使ってもらう事ができました。ファッションデザイナーの感性溢れるイメージ図を実際の形にするということは非常に勉強になりました。
それから、家を作ってくれという依頼が来たこともあります(笑)。それで和傘の家を作ったり、家具を作ったり、「古都里-KOTORI-」のおかげで、これまで本当にいろいろなことに挑戦させてもらいました。
そして、このようにドレスや家など、和傘に拘らずに、色んなことをやってきたことで、「ここは頼んだら面白いことやる工房だぞ」という風に思っていただけるようになり、さらにこういった話が次々とやってきて、クリエイティブでイノベーティブな“老舗ベンチャー”だということが広がっているんじゃないかなと、今は思っています。
アドバイザリー事業の立ち上げ
「古都里-KOTORI-」のヒットにより、和傘というニッチ分野において、国内外で売上を伸ばせるようになると、色んな事業者から海外で成功するためのノウハウを教えてほしいと依頼が来るようになりました。そこで、伝統工芸を中心とした事業者の、商品開発や販路開発の支援をするようになり、2010年からはアドバイザリー事業を正式に立ち上げ、現在では“日吉屋CRAFT-LAB”という名前で日吉屋グループの一部となっています。
自分たちがこれまでに培ってきたノウハウをほかの事業者に展開するだけに留まらず、日吉屋が持っているデザイナー・バイヤー等のネットワークを活用しながら、販路開拓支援など、事業者の支援を行っています。このような支援活動を続けた結果、今では北海道から沖縄まで、のべ800社くらいの事業者をご支援させていただいてきました。
グローバル戦略のメソッド化〜3000社の海外進出へ向けて〜
数年前に、中小企業庁の次長が日吉屋にお越しになられたことがあり、「再現性があり、多くの中小企業が取り組む事ができるような仕組みを考えてくれませんか。3000社が海外進出できるくらいのノウハウを」という風に言われました。しかし、私一人が3000社と会うことは不可能です。そのため、ある程度、普遍性、再現性のある形でメソッド化する必要があると思い、「Next Market-inネクスト・マーケットイン」という独自のマーケティング手法を考案し、自社のこれまでの海外事業の経験等も合わせた本「伝統の技を世界で売る方法~ローカル企業のグローバルニッチ戦略(学芸出版社)」を出すことにしました。
これまで日吉屋が支援させて頂いてきた中小企業はのべ約800社ほどです。全ての会社が上場を目指す事ができるような急成長を遂げるのは難しいかもしれません。ですが、1社あたり新規事業で数百万~数千万程度の売上を底上げすることはできると思っています。仮に、800社の売上を1社あたり1000万円増やす事ができれば、トータルでは80億の売上を上げることができます。そしてこれは一定のメソッドと、あきらめずに取り組む事で、十分可能だと考えています。
今後の展望
伝統を受け継ぎ、どこまで行くか
「伝統は革新の連続」という理念を今後とも大事にしていきたいと思います。この理念のもと、現代のお客さんに喜んでいただけるよう、和傘はもちろんのこと、その他伝統技術を活かして商品・サービスを提供し続けたいと考えています。そして、日本以外の方にも、日本の伝統文化の凄さを伝えられるような会社にしていきたいと思っています。
ただ、最近自分でも悩んでいるのですが、どこまで行けばよいのかがよく分かっていません。さらに規模を拡大するのが良いのか、この辺で留めておくべきなのか、その辺りはまだまだ答えが出ていないので、これからも考え続けないといけないところだと思っています。
働き方改革〜誇れる仕事へ〜
また社内の話になりますが、職員が親・子・兄弟に誇りをもって自分の仕事を言えるような職場にしたいと思っています。伝統工芸という職場でも、自分と同級生で四年制大学を卒業した人と比較しても遜色ないレベルの給与を実現したいと考えています。
また、働き方改革にももっと取り組みたいと思っています。伝統工芸業界は古い業界なので、もともと「でっち奉公」のようなものがありましたし、給料なし、土日祝日関係なし、残業も多いというブラックな業界でした。しかし、これでは続かないと思いましたし、伝統を残していくことが出来ないと思い、伝統工芸であってもちゃんとした会社組織にしたいと考えました。そこで、社会保険はもちろん、完全週休二日制とし、残業代も全額つけるように変えました。こうすることが、これから先も安心して和傘づくりを継続的に取り組むことができるし、和傘という伝統文化を残すことにつながるのだと思います。